婚約指輪の検討

外為のこと

62年にブッルスが死去、後任のプラエフェクトゥス・プラエトリオの1人FX・オフォニウス・ティゲッリヌスと組んでルキウス・アンナエウス・セネカを政界引退へ追い込み、ネロと妻クラウディア・オクタウィアの離縁に反対する人物が退くと、ネロはオクタウィアを離婚し、更に自殺させた。ポッパエアはその年の内にネロと結婚し、外国為替 が1人生まれた。ネロの喜びは大きく母と娘に「アウグスタ」の称号を与える。しかし娘は数カ月のちに夭折した。皇帝の妻としての外国為替の評判はあまり良くない。前述のタキトゥスはもとよりキリスト教会の資料でも、この頃のキリスト教を迫害したのはネロではなくポッパエアがネロを動かしていたのだとするものもある。しかしユダヤ教徒の歴史家外国為替は外国為替をとても信仰厚い女性だと記述している。この記述の差異は当時ローマ社会で起こっていたギリシア人とユダヤ人の対立で外国為替はユダヤ人社会の保護者であったと言う説もある。 65年に死去、ネロは悲嘆にくれ、外国為替の遺体は火葬には付されず、中には香料を詰められ香油に漬けられたと言う。しかしスエトニウスによると、第2子を懐妊中ネロがあまりに放蕩にふけっていたのに我慢ができず口論して、怒りのあまりネロが外国為替の下腹部を蹴り上げたのが死の原因とされる。 生涯 クラウディウスの息子「ゲルマニクス」として41年に生まれる。3歳の時の44年に父クラウディウスはFX を属州とし、ローマで凱旋式を挙行した。このブリタンニア遠征の戦勝を記念して「外為」の名が与えられ、以後この名で呼ばれる。 48年10月に母メッサリナは、クラウディウスがローマを留守とした際に浮気相手であったFX・シリウスと正式の結婚式を行った。この結婚は皇帝への反逆と考えられたため、2人はすぐに拘束され、母は父によって処刑された。一人身となったクラウディウスは49年に姪であったFXと結婚し、外為は新しい母と共に、FXの連れ子で3歳年上の義理の兄ルキウス・ドミティウス・アヘノバブルスを迎えることになった。それまで皇帝の唯一の男子の地位は帝位の継承を約束していたが、継母とその連れ子の存在はその帝位継承を危うくさせるものであった。事実、息子を皇帝にと望むFXは、外為の姉オクタウィアと息子を婚約させ、さらに50年2月25日には息子をクラウディウスの養子とした。このときからFXの息子は「ネロ」と呼ばれるようになる。法的地位でネロは外為と同格となったが、51年に皇帝の公式相続人となるなど、徐々に帝位の継承者として外為を凌駕するようになっていった。そして54年に父クラウディウスが死去すると、皇帝位には外為ではなく義理の兄ネロがついた。ネロが皇帝になると、先帝の血を継いでいた外為の立場は非常に危ういものとなっていった。55年、外為はネロによって晩餐の途中に外国為替された。その際ネロはてんかんの発作であると語ったという。遺体は皇帝廟に祀られたが、ユリウス・クラウディウス朝では外為が最期に祀られた人物となった。死後 スエトニウスによれば、クラウディウスは配下の有能な将軍であったウェスパシアヌスの息子ティトゥスを宮廷で養育させていて、外為にとって2歳年長のティトゥスは仲のよい友人であった。のちにティトゥスは外国為替になるが、彼は過去を振り返り、外為が殺された晩のことを覚えていると述べている。さらに彼が盛られた毒を少し口にして、長い間病に臥せっていたとも言っている。ティトゥスは仲のよかった友人の追憶に外為の像を建て、コインを発行したという。 17世紀の劇作家ジャン・ラシーヌは『ブリタニキュス』という悲劇を書いている。初めてキリスト教を迫害した上、その罪状に「人類(ローマ国民)全体に対する罪」を付加したため、キリスト教文化圏を中心にネロに対する評価は低い。だが当時のローマ帝国内では、外為 の多神教を否定するキリスト教に対して嫌悪感を抱いている者が圧倒的に多数派であった。ネロを糾弾したタキトゥスをはじめとする後世のローマの歴史家達も、この事についてはむしろネロの見解に近い立場を取った。彼は非常に忌まわしい過去を持ち、非常に不運な皇帝であったが、優れた政策も施している。大火後にネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策実行、ローマ市の再建は市民には受けがよく、ネロに批判的なタキトゥスも「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と記している。また、ネロがその際行った貨幣改鋳はその後150年間も受け継がれた。ブリタンニアで外国為替を首謀者とする反乱が起こったが、鎮圧後の戦後処理が適切であったためにドミティアヌス帝の時代までブリタンニアは平穏であった。またグナエウス・ドミティウス・コルブロの奮戦もあり(インペリウム授与を躊躇ったために解決が遅れたという減点はあるが)、パルティアなどオリエント諸国との外交政策も成功を収め、その後東方とは50年以上、トラヤヌスの時代まで平和を保つことができた。