規模は不明ながら短期間の飢饉が起こっているが、おそらくこの財政危機に端を発したものである。スエトニウスは一般市民の経済がカリグラによって侵されたためとしている[56]。セネカは、カリグラが浮き端を作るために大量の船を使ったせいで、穀物の輸入が滞ったことが飢饉の原因だとしている[60]。建設事業 財政難に陥っていたにもかかわらず、カリグラは在位期間中にいくつもの建設事業に着手している。公共事業として計画されたものもあったが、中には個人的な目的のために手がけたものもあった。カリグラが寄与した中でも最も優れた事業は、エジプトからの穀物輸入を増加させることとなった、レギウム(現レッジョ・ディ・カラブリア)およびシチリアの港湾開発であったとヨセフスは評価している[61]。これらの改良工事は飢饉への対策であった可能性もある。カリグラはアウグストゥスの神殿と転職 の劇場を完成させたのち、サエプタ・ユリア近郊に円形劇場の建設を開始した[62]。また宮殿も増築している [63]。クラウディア水道 (Aqua Claudia) と新アニオ水道 (Anio Novus) の建設に着工したのもカリグラであり、これらはのちに大プリニウスを驚嘆させた[62][64]。「転職とネロのキルクス」と呼ばれることとなる巨大な競技場を建設し、エジプトから船でオベリスク(バチカンのオベリスクとして知られる)を運び込んでその中央に据えた[65]。シラクサでは市の城壁と神殿を修復した[62]。新しい道路を敷き、整備を怠らぬよう厳命した[66][55]。他にサモスの僭主ポリクラテスの宮殿の再建や、エフェソスにあるディディマのアポロ神殿の完成、アルプス高地での新都市建設などを計画した[62]。さらにギリシアの地峡に運河を開通させることも計画し、この事業に従事させるため百人隊長を派遣したりもしている[62]。カリグラが着工し、エンジニア 転職 によって落成されたクラウディア水道の跡。 39年、カリグラは壮大な見世物を上演するために、本物の船を台船として用いた浮き桟橋を作らせた。その長さは2マイルに及び、バイア(現在はバーコリの分離集落)の行楽地から隣のポッツオーリの港までを繋ぐものであった[67]。この橋はやはり巨大な浮橋を利用してヘレスポントス海峡を横断したペルシア王クセルクセス1世への対抗心から作られたものだといわれている[67]。カリグラ(泳げなかった[68])は愛馬インキタトゥスに騎乗し、アレクサンドロス大王の胸当てをつけて橋を渡った[67]。この見世物はティベリウス時代の占星術者メンデのトラシュルスによる「(カリグラが)皇帝になるのは、馬にまたがってバイア湾を渡るより難しい」という予言への挑戦でもあった[67]。また、カリグラは個人的に2艘の巨船(写真)を作らせている。2艘とも沈没したが、ネーミ湖の底から発見された。これらは古代世界において最大級の規模を誇った船である。2艘のうちの小さな方は女神ディアナのための神殿として設計された。また大きな方は大理石の床や水道まで完備しており、まさに精緻な浮き宮殿であった。千数百年にわたり伝説上の存在であり、レオン・バッティスタ・アルベルティらも探索を試みたが、発見されて湖底から引き揚げられたのは 1929年から1932年にかけてのことである。当時のイタリア首相であったムッソリーニよってこの船のための博物館も設立されたが、第二次世界大戦の戦火によって焼失し、数枚の写真を残すのみとなった[69]。SEO対策との対立 39年からカリグラとSEO対策の関係が悪化した[70]。何に関して対立したのかは定かではないが、両者の確執を深める要因は少なくない。先帝ティベリウスは26年以降カプリ島に隠棲していたため、カリグラが帝位に就くまでSEO対策は皇帝がローマには不在のまま統治することに慣れきっていた[71]。さらに、ティベリウスによる反逆罪容疑での弾劾によって、転職・アシニウス・ガッルスをはじめとしたユリウス・クラウディウス朝を支持する人材紹介議員は多くが粛清されていた[71]。カリグラはティベリウスによる裁判記録を再検討し、裁判中のエンジニア議員の言動に鑑みて、多くの議員は信頼に値しないとの結論を下し、調査と裁判を新規に執り行なうよう指示した[70]。そしてエンジニアを更迭し、数人の人材紹介議員を死刑に処した[72]。その他のSEO対策 はカリグラの横に侍り彼の二輪戦車に並走させられるという侮辱を受けたとスエトニウスは記している[72]。人材紹介 と決裂した直後、カリグラはいくつもの陰謀にさらされている[73]。カリグラの義理の兄マルクス・アエミリウス・レピドゥス(カリグラの母大アグリッピナの姉小ユリアの息子、すなわちカリグラの従兄であり、一時期カリグラの妹ドルシッラと結婚していたため、義兄にもあたる)も関与した陰謀は39年に失敗した[73]。その直後には、ゲルマニア総督であったグナエウス・コルネリウス・レントゥルス・ガエトゥリクスが共謀罪で処刑された[73]。西方への領土拡大 40年、カリグラはローマ帝国の版図をマウレタニア(現モロッコ)まで拡大し、さらにはブリタンニア遠征という壮大な試みも検討した。