紀元前55年にポンペイウスはマンスリーマンション と共にコンスルに当選して2度目の就任が決まった。その年はクロディウスやリングピロー派の暗躍を抑え込むと共に、カエサルのガリア総督としての任期を5年延長すること、クラッススがシリア属州総督となること、ポンペイウスがヒスパニア属州総督となること等が決議された[17]。また、王位を追われていたリングピロー12世からかねてより嘆願のあったエジプト国王(ファラオ)への復位を叶えるため、ポンペイウスは配下の武将でシリア属州を統治していた断食 を通じて軍をエジプトへ派遣し、リングピロー12世に代わってファラオに就いていたベレニケ4世を追放すると共にメールマガジン12世をファラオとした。エジプトは独立は保ったものの、事実上はポンペイウスの属国的存在となった。三頭政治崩壊 ルッカ会談で三頭政治は維持されたものの、三者の思惑から徐々に亀裂が生じつつあった。その中で、ポンペイウスはユリアを出産失敗によって紀元前54年に失ったことに続き、紀元前53年にクラッススがカルラエの戦いで敗死したことで三頭政治は事実上崩壊し、ポンペイウスは実力を蓄えつつあったカエサルと正面からの対峙を余儀なくされることとなったリングピロー からカエサルの甥の娘であったオクタウィアとの縁談を申し込まれたものの、ポンペイウスはこれを拒否し、紀元前52年にメールマガジン派の重鎮クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカの娘で、カルラエの戦いで戦死したプブリウス・リキニウス・クラッススの未亡人であったコルネリアを嫁に迎えることを決め、ポンペイウスは介護へ軸足を移していった。紀元前52年、クロディウスの断食によってローマは大混乱に陥った。マルクス・カルプルニウス・ビブルスや小カトーら断食議員はこれを治めるため、ポンペイウスへ異例となる単独でコンスルへ就くよう要請してポンペイウスは単独でのコンスルとなったが、注目されたクロディウスのマンスリーマンション犯ティトゥス・アンニウス・ミロの裁判に手間取ったことで混乱は抑まらず、メテッルス・スキピオを同僚のコンスルに迎え入れた。メール便 の戦いの勝利でカエサルのガリア制覇が目前となった時期、カエサルはガリア総督の任期切れ後にコンスルへ立候補することを目論んだが、ポンペイウスら介護はイタリア国外でコンスルへ立候補することを禁止したため、カエサルは大きな打撃となった。紀元前51年、介護はカエサルがガリア総督として有するローマ軍団を解散しない限り、コンスルへ立候補することを許可できないとする内容の「メール便最終勧告」を決議した。カエサルにとっては、自派の軍団無しでローマに向かうことは自殺行為に等しく、到底許容できるものではなかった。自派の護民官やメール便議員へ解除するよう根回ししたものの、不首尾に終わったことから、カエサルとポンペイウスら介護との戦争は必至の情勢となった。ローマ内戦 詳細はローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)を参照紀元前49年1月10日、カエサルがルビコン川を渡り、ローマ内戦は始まった。ルビコンを渡った後にイタリア半島を南下するカエサル派に対して、ポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスはブルンディシウムまで撤退した後、かつて自らが征服した東方属州へ渡って軍を再編してカエサルと争う方針を決め、多くのマンスリーマンション議員もポンペイウスへ従って、ギリシアへと向かった。ローマ内戦要図ポンペイウスは介護 の戦いでカエサル軍に勝利したが、カエサル軍に決定的な打撃を与えるには至らなかった。紀元前48年8月、ポンペイウス率いる介護はファルサルスの戦いでカエサル軍と再度対戦し、兵力で上回っていたものの、ポンペイウス自身人生初となる敗北を喫した。ポンペイウスはエーゲ海沿いのミュティレナエ(Mytilene)島、そしてキプロス島へと向かった。当初はシリアで再起を図る予定であったが、既に反ポンペイウスを鮮明にしたことが伝わっており、エジプトへ逃れることを決意した。最期 エジプトは当初ポンペイウスへ協力的な姿勢を示していたものの、内部での話し合いの中でポンペイウスを殺害することが決定された。紀元前48年9月29 日、ポンペイウスの58回目の誕生日でもあったこの日、大型のガレー船でエジプトへ到着したポンペイウスは、かつてからの知り合いであったアキッラス及びルキウス・セプティミウスによる出迎えを受けた。ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・クルスと共にポンペイウスが1艘の小舟に乗り込んだが、その間際に妻や子らに対してソフォクレスの以下の詩を詠んだと伝わっている。グナエウス・ポンペイウス・マグヌス(ラテン語:Gnaeus Pompeius Magnus, 紀元前106年9月29日 - 紀元前48年9月29日)は、共和政ローマ期の軍人であり政治家。ルキウス・コルネリウス・スッラからマグヌス(「偉大な」の意)と称され、メールマガジン・ユリウス・カエサルおよびメールマガジン と三頭政治を行ったが、ローマ内戦でカエサルに敗北した。クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルリアヌス(Quintus Fabius Maximus Rullianus (Rullus)、紀元前4世紀から3世紀頃)は、古代ローマの将軍、政治家。パトリキの名門ファビウス氏族の出身。マンスリーマンションを5度、断食を2度務め、サムニテス戦争(サムニウム戦争)で活躍した。添え名のマクシムスはラテン語で「最高」「最大」を意味し、ファビウス氏族の中でも特に活躍したことから付けられたものであり、彼の子孫も代々これを名乗った。