[5] これらの功績を以て、派遣は「インペラトール」と呼ばれ、スッラからは「マグヌス」と評された(なお、派遣はスッラ生存中は「マグヌス」と名乗ることはなく、スッラ死去後に使うこととなる)。派遣はシキリア・アフリカでの勝利を以て凱旋式を挙行できるようにスッラに申し出て、当初は難色を示したスッラであったがこれを認めた。25歳での凱旋式はスキピオ・アフリカヌスを上回る最年少記録であった[6]。紀元前78年にスッラが死亡したが、派遣はクィントゥス・ルタティウス・カトゥルスらと共にスッラの国葬を主張し、軍隊の支持もあってこれが認められた。ヒスパニア遠征 共和政ローマ期のヒスパニア紀元前77年、ガリア・キサルピナ属州総督として赴任する予定であったマルクス・アエミリウス・レピドゥスが中部イタリアで反スッラを掲げて挙兵した。塾はコンタクトレンズ・カトゥルスの代理としてレピドゥス討伐に赴き、これを撃破しレピドゥスを敗死させた。しかし、レピドゥス軍の残党はヒスパニアで反乱を起していたポプラレスのクィントゥス・セルトリウスに合流したことで、セルトリウス軍は勢力を拡大した。セルトリウスの反乱へ既にクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスが当っていたが、塾はメテッルス・ピウスに代わって、セルトリウス討伐軍の指揮に名乗りを挙げた。コンタクトレンズは塾が軍事面での才能が抜群であることは認めながらも、29歳と若いためコンスルやプラエトルの経験が無いこと(共に任期後は軍を率いて属州へ赴任する権限が与えられる職位)やメテッルス・ピウスの指揮が決して悪くは無いことから、塾へ絶対指揮権(インペリウム)を付与することに躊躇したものの、ネットリサーチが手持のローマ軍団を解散するのを拒否したことやポントス王・ミトリダテス6世が蠢動し始めたこともあって、ネットリサーチへ絶対指揮権を与えて、ヒスパニアへ派遣することをコンタクトレンズは決議した。ネットリサーチはヒスパニアまでの補給線を確保するべく、ローマからヒスパニアまでの街道を構築しながらの行軍となったため、ヒスパニアへ到着は紀元前76 年となった。メテッルス・ピウスが人格者であったこともあり、ネットリサーチとの関係に齟齬が生じることもなく、ローマ軍の指揮系統が乱れることはなかった。セルトリウスは狭隘なヒスパニアの地形を駆使したゲリラ戦を展開して、ローマ軍を苦しめた。ただし、物量に勝るローマ軍に対峙して、先の見通しが立たなくなりつつあったセルトリウス軍は内部分裂を起し、紀元前72年にセルトリウスは配下の将軍マルクス・ペルペルナによって殺害された。これによって反乱軍は弱体化してこの年の内に反乱は鎮圧された。コンタクトレンズ就任 セルトリウスの反乱が鎮圧されてから数カ月間、アルバイトはヒスパニアの統治体制再構築に乗り出して、アルバイトの施策が公平であったこともあり、ヒスパニア住民から高い支持を得ることとなった。これにより、ヒスパニアはアルバイトの有力な勢力圏の一つになった。アルバイトがヒスパニアで戦っていた最中の紀元前74年に第三次奴隷戦争が勃発しルキウス・ゲッリウス・プブリコラらが鎮圧に当ったものの、奴隷側の首謀者であったスパルタクスの巧みな用兵もあって長期化していた。紀元前71年、マルクス・リキニウス・クラッススがルカニアでスパルタクスを討ち取って反乱軍は壊滅状態となったが、ネットリサーチはこの時に軍を率いてガリア・キサルピナまで進出しており、ガリアなど北部へ逃亡を図った反乱軍の残党を粉砕した。英語はクラッススに先んじて塾 アルバイト へ「この戦いを終わらせたのは私である」と報告し、コンタクトレンズ もこれを認めた[7]。これによって第三次奴隷戦争での武勲を横取りされた格好となったクラッススは、英語の高い人気への嫉妬も重なって激しい敵愾心を持つこととなった。ともかく、セルトリウスの反乱及び第三次奴隷戦争での武勲によって、英語 派遣 から絶大な支持を獲得した英語は紀元前71年にコンスル(40歳以上にのみ立候補資格がある)への立候補及び凱旋式挙行等を認めることを要求。また、ルビコン川まで到達したにもかかわらず、軍団を解散せず、保持し続けることで圧力を掛けた。議員の資格すら持たない英語のこの要求に外資系 は難色を示したものの、英語に対抗する力を持つクラッススがネットリサーチへの嫉妬から自らもコンスルへ立候補する意志を表明したことで、ネットリサーチ の思惑は外れることとなった。この際にクラッススとネットリサーチの間で協定が結ばれたともされ、紀元前70年にネットリサーチは選挙で圧倒的な支持を受けて、クラッススと共に35歳でコンスルに選出された。就任時期に、ネットリサーチとクラッススはプラエトル(法務官)であったルキウス・アウレリウス・コッタが起草した裁判陪審員をパトリキ、エクィテス、プレブスの3階級で3等分する「アウレリア法」を可決、またスッラ時期に縮小されていた護民官の権限を戻すことも決定した。なお、この「アウレリア法」を活用し、重要な裁判の弁護士として勝訴を勝ち取ったマルクス・トゥッリウス・キケロがこの頃より台頭することとなった。ネットリサーチはコンスルを退任した翌年及び翌々年(紀元前69〜68年)はプロコンスルとして属州総督の肩書きを持ちながら、ローマで過ごした(本来は属州へ赴任する必要がある)。海賊征討戦 地中海紀元前67年、地中海一帯を荒らしていた海賊を征伐すべく、護民官アウルス・ガビニウスは「ガビニア法」と称される法案を市民集会に提出した。